フーテンのコンサルタントの雑感

ニートからフーテンのコンサルタントに進化しました。コンサルティング業界や、ソーシャルセクターのことについて投稿します。

知的障害者への偏見に対する論考と、僕たちの悲しい性について

知的障害者は排除した方がよい」こうした思想を持ち、知的障害者を複数人殺害した、知的障害者施設勤務の20代男性がいる。彼は、被害者とその家族には申し訳ないと思っているようだが、思想については変化がないとのことだ。

 

この報道を見て、多くの人は「なんてクズだ」というだろう。しかし、僕は次の2つの疑問を投げかけたい。

①当事者である加害者が、こうした思想を持ったことには、それなりの理由があるのではないか。

②我々は、加害者を非難するだけの傍観者になっていないか。あるいは、我々は善人なのか。

 

①当事者である加害者が、こうした思想を持ったことには、それなりの理由があるのではないか。 

加害者は知的障害者施設のスタッフとして、知的障害者のケアを行っていた。
極端な思想は(加害者のやや特殊な生い立ち・行動特性を考慮しても)その生活から生じたはずだ。

加害者の主張は直感的に間違っていると感じるが、実際はどうだろうか。
論理展開には、経済的合理性(マクロ/ミクロ)、社会秩序という切り口を採用した。

 

マクロの経済合理性として、知的障害者によるGDPへの影響を考慮したい。
プラスの要素としては、知的障害者の労働と、障がい者関連事業(施設など)による富の創出があげられる。
一方、マイナスの要素としては、知的障害者の親族の労働が制限されることによる労働量の減少、社会保障費の増加があげられる。
マクロ的な観点では、マイナスを、プラスの産業創出で一定カバーしているだろう。

 

問題なのはミクロ、つまり家庭で見た時の経済的合理性である。
残念ながら、プラスの要素はなく、マイナスの要素しかない。
日本人の平均年収は350~440万程度である。知的障害者の家族を持つと、家計支出から、知的障害者に対しての対応コストを捻出しなければならない。
また、知的障害者がいることにより、世帯の労働者(特にシングルマザー家庭の母親などは)知的障害者の対応により労働時間が制限され、収入は増えにくい。
さらに、育てても、障害者が社会に出ることができる割合は限られており、所得もわずかである。このように見ると、特に貧しく労働者が少ない世帯では、知的障害の親族を抱えることで、大きな負荷がかかってしまうだろう。

 

次に、秩序の観点を見てみたい。
知的障害者は排除すべきだ」という命題は、経済合理性のない集団を排除するという、ある種の秩序形成である。
ただし、「知的障害者は排除すべきだ」という命題を真とすると、
「マクロまたはミクロで経済に悪影響を与える集団は、排除すべきだ」
という思想を招きうる。そうなると、例えば要支援/要介護者や、身体障害者も排除すべきということになり、優生思想が流布することになる。こうした思想は人間関係の排除へと向かい、かえって無秩序をまねくだろう。

 

以上より、知的障害者は、経済合理性のミクロの観点では悪影響だが、マクロの観点では産業創出に貢献している。さらに、知的障碍者を排除することによる社会秩序の悪化を考慮すると、知的障害者は排除すべきでない。

 

さて、この主張には続きがある。ここまで論理の観点から説明してきたが、多くの人はこの展開に嫌悪感をしめすだろう。
なぜなら、我々が「他人を尊重しなければならない」という強烈な思想を持っているからだ。つまり「知的障害者は排除すべきだ」は、論理だけでなく、情理/倫理の観点からも説明しなければならない。
なお、我々の思想「他人を尊重しなければならない」は、人間の幸福で最も重要なのが関係性であることからも、合理性はある。しかしそのようなことはどうでもよく、究極的には、弱者を殺すのは悲しく、美しくないのである。

 

このように「知的障害者は排除すべきだ」という命題は、論理よりもむしろ情理/倫理の側面からみたほうが、妥当性は希薄にもかかわらず、非常に納得感のある形で偽であると答えることができる。

 

②我々は、加害者を非難するだけの傍観者になっていないか。あるいは、我々は善人なのか。

このニュースを見て多くの人が「悪魔、地獄に落ちろ」と(少なくとも近しいことを)思っただろう。しかし、僕たちは加害者を裁けるほど高尚な人間だろうか。

知的障害者を殺すなんてありえない」と思う一方で、「知的障害者は不快、怖い」「子供が知的障害者なら辛い」という心情を持つことはないだろうか。僕はある。

もちろん、そんなことは微塵も感じたことがない、と答える人もいるだろうが、残念ながら、この世の多くの人間は凡人で、聖人君子ではない。つまり僕と同じく、電車の中の知的障害者を見た時に席を離れたり、子供が知的障害なのが事前にわかるならば、下ろした方が良いのではないかと悩みまくる人間である。

僕たちは弱い人間なのだ。加害者のやったことは許されない。しかし一方で「自分も加害者と同じ思考を持っているのではないか?」という問いかけを、胸にしなければならない。そして、自分の本心が理想とはほど遠いことに気が付いたとしても、決して否定してはいけない。

人間には良心があり、それに従って生きようとする。もし、今、自分の本心が、良心(理想)と違うことに気付いたとしたら、それはなぜなのか、これからどうすればよいのかを考えてみるべきだと思う。